現代社会では、個人的な暴力はいかなる場合も許されない。しかし、集団が個人を暴力的な方法で制裁する仕組みは残っている。現在、暴力は国家に集中しているのだ。
暴力を批判的に吟味した先人にベンヤミンがいる。
ベンヤミンは暴力を目的の無い暴力(神的暴力)と目的のために行使される暴力(神話的暴力)に分けた。そして、目的のために行使される暴力をさらに、法維持的暴力(現在ある法を強化、再生産するもの)と法措定的暴力(新たな秩序を立ち上げるもの)に分けた。
ベンヤミンはこう語っている。
「目的のために行使される暴力は罪をつくり、目的の無い暴力は罪を取り去る。前者は脅迫的で血の匂いがする。後者は衝撃的で、致命的ではあるが、血の匂いはない」
ただただ衝動的にでてくるのか、所属している集団のある種の強制的ルールからくる圧力、不安感、焦燥感などからくるのか。これらの暴力性を隠してしまう正しさや権利というワードに自覚的になって、できるだけ暴力を抑えられる仕組みは無いのか。
ベンヤミンが参照したと言われるソレルの「暴力論」では、ブルジョアジー(資本家)とプロレタリアート(労働者)の対立において、プロレタリア革命のことを目的の無い暴力(神的暴力)として描いている。ニーチェでいうところのルサンチマンだ。階級を入れ替えるような戦争は衝撃的に目的無く起きてしまう。
暴力について語った人に、アインシュタインとフロイトもいる。アインシュタインがノーベル賞を受賞した10年後、53歳の時、国際連盟から「人間にとって最も大事だと思われる問題を取り上げ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」と依頼があった。アインシュタインが選んだ相手はジークムント・フロイトだった。
その内容が書籍『ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡』としてまとめられている。
本書からは、このようなことが抽出できる。
人間のあいだで利害が対立したときに決着をつけるのは暴力であった。しかし、このような原始状態は次第に変化をして、権利という概念を生み出す。一人の人の力が強くても、集団になれば暴力に対抗できるようになるため、集団的な力を表すものとして権利という概念が作り上げられるのだ。共同体の権利を脅かすものは、共同体の機能(司法とか警察とか)から制裁が下る。しかし、権利というものは、その共同体の構成員の力関係による不平等があるのだ。産まれながらにして、変えられないものも存在している。ある人にとっては、権力は姿を変えた暴力でもある。権利は、すでに支配している側にとって、より有利なように変更が加えられていく傾向がある。
これは、神的暴力が起きる流れそのものだ。国家が維持している法とは「むき出しの暴力」なのだ。
ここで質問タイム。あなたならどうする?
1、長いものに巻かれる。
2、自分が生きて行けるくらいの力をつけて自由に生きる。
3、精神世界に逃げる。
4、革命を起こす。
5、思考停止する。
6、理性的に生きることで情動を制する。
7、そんな抽象的なことより、今を生きる。
8、絵を描く。
9、家族を頼りに生きる。
10、理性も欲望だ。今のところ解決策はない。
色々なことが想起して、行動が起きそうだ(笑)
話を書籍に戻して、フロイトは大まかにこのような結論を出す。
人間の攻撃的になってしまうTodestrieb(死の欲動 タナトス)を完全に消滅させることはできない。そこで、攻撃的な欲動Todestrieb(死の欲動 タナトス)を戦争に向けるのではなく、これに抵抗するLebenstrieb(生の欲動 エロス)に訴えかける。
真っ先に思い出したのは、アメリカで起きた24人の人格を持った人の起こした事件と、日本の神戸で起きた児童殺傷事件だ。彼らの精神には社会で起こっている、複雑な現象を精神機序をこれに対しては自分なりの意見があるが、ここでは控えておく。
もう一冊書籍を紹介したい。スラヴォイ・ジジェクの『暴力-6つの斜めからの省察-』だ。
この本の中でジジェクは「相手について、何も聞かず、興味をもたず、自分がリベラル(と決めている)というだけで、相手を受け入れるような態度をとる」というステレタイプな処理に対して警鐘を鳴らしている。
これでは、リベラリストはリベラリストしか仲間に入れないという権利と暴力の装置が働くのだ。たとえば共同体を大切にする人からすれば、リベラルの人たちには厚い壁を感じるという現象がおきる。
このサイトのブログの中で、ヴォルテールの「寛容論」の話をしたが、寛容とは「所属する集団における常識的価値観を理解しながら、その社会にとっての非常識、非道徳的な価値観の持ち主を受け入れられる態度のこと」ではないかと思っている。寛容とは自らの感覚質や倫理を変化させることであって、ダイナミックなもののはずだ。
リベラルで寛容を装う人から近づかれたが、根底には損得勘定が強く動いていて、損しそうと思ったのか、態度を変えてきた人がいた。これは悲しい出来事として記憶している。
Expressionのサロン活動の中で、寛容でいられるために、身体を使ったイベントを企画していきたい。