精神の立ち上がりの元には欲望が潜んでおり、そこにはすでに指向性が存在しているとわかった時、ヘーゲルの言っていることにリアリティがでてくる。ようやく『精神現象学』を読める機会に恵まれそうだ。
あらゆるものは自己認識である。他者について、世界について、超越性について語っていると思いながら、実は自分自身について語っている。
ラカンの有名な、「人間の欲望は他者の欲望である」というテーゼ、心理学の中心的なテーマである承認、存在と無、あらゆるところで欲望に対するアプローチは言語化される。
欲望をどう名指すのか、どういった形式や美を与えるのか、または封じるのか、それによって家族が、民族が、社会が、そして自分自身への認識が変化する。
欲望には中心が無いと思った方がよさそうだ。欲望の中心を考え出すと飲み込まれ、否定的になると存在を奪われる。欲望はあらゆるものに付着しており、そのすべてを意識化することは不可能だろう。倫理が常に変化しているという現象がその答えだ。
ニーチェの言うディオニソス的ギリシア人とは、欲望を観念的に処理できて、共通資源をなるべく食わないように訓練された人だと解釈できる。それは現代ではメディアの世界に現れるべきなのではないかと思う。メディアが正しく機能することで、身体維持のための経済合理化をする、欲望の観念的な処理をする、その両方を備えた中間的な場ができあがる。
狂うが分かると、狂わないも分かるわけで、欲望が分かると、法も分かるという次第。あとは認識のためのスケールをいくつか持ち、それを行き来しながら、運によって目的を決めたり、時に熱中し、楽しく生きる。ヘーゲル的狂気は、終演のない運動としての狂気。
最後にバタイユを
「私は、ヘーゲルの省察の、まさに基底に、狂気と等価なものを据えようというわけです。」(バタイユ)
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